小学校1年生。ピカピカのランドセルを背負い、新しい小学校生活が始まったかと思いきや、「学校に行きたくない」「保育園の方がいい」と、登校前に泣いている子がいる。いわゆる“小1ギャップ”というやつだ。小1ギャップとは、幼稚園や保育園から小学校へ進学した際に直面する、環境や生活の変化による戸惑いや負担のことを指す。主な原因として「生活リズムの変化(長時間の授業に適応することや、給食や掃除、宿題など新しいルールに慣れること)」「人間関係の変化(幼稚園や保育園の先生と比べ、小学校の先生は一人で多くの生徒を見るため、個別対応が少なくなることや、クラスメートも新しくなり、友達作りが必要になること)」「学習環境の違い(授業が決まった時間に進むため自分のペースで動けないことや、ひらがなの読み書きや計算など学習内容が増えること)」などが挙げられる。
当たり前だが、小学校1年生になったばかりの子は、いろいろなことが”できない”のである。幼稚園から小学校に上がった際に、小学校に存在するさまざまな“できないこと”に圧倒される(子がいる)のだ。それが少しずつ自分でできることが増えていき、小学6年生の卒業式には立派な顔つきになって小学校を卒業する。ひょっとしたら、保護者の方にとっては、小学校の卒業式が一番感動するのかもしれない。なぜなら小学校1年生から6年生の成長が一番大きいと感じたり、できないことが多かった頃を思い出したりするからだ。今回のブログは、「自由」と、この「成長」という言葉をキーワードに進めていこうと思う。
「自由」とは、“自分の意志で考え、行動し、選択できる状態のこと”だ。「自由でいいよ」と言われると「やったーっ!何でもしていいんだ」というリアクションが返ってきそうだね。
過去にこんなことがあった。学校で授業をしていた時、「時間が余ったから残りの時間、明日のテストに向けて自由に勉強していいよ」と言った。すると、自由なはずなのに、「え~、何をしたらいいか分からないから問題を下さいよ~」という子たち。そしてそんな子を横目に、黙々と自分で勉強をする子たち。さっきの自由という言葉の定義をもう一度読むとよく分かる。そうか、勉強に対してこの子は自分の“意志”がないんだ、自分の“考え”がないんだ。そしてそれは、「目的や目標をもたずに、人に与えられたことをやってきたこと」が主な原因なのだろう。
小学校6年生の国語の教科書(光村図書)の最後の物語文に「海の命」という話がある。主人公の太一が漁師として成長する物語だ。幼い頃に同じ潜り漁師であった父を亡くした太一は、与吉じいさんという人に漁を一から教わる。やがて一人前になった太一は、父が捕らえられなかった(死の原因となった)巨大クエを仕留めようとするが、その直前に“命の大切さ”を感じ、捕らて仇をうつことをやめる。自然と共に生きる漁師の姿を通して、「命の尊さ」と「人と海の共存」の大切さを描いた、とても感動的な物語だ。
この海の命の中で、こんなシーンがある。『太一は嵐さえもはね返す屈強な若者になっていたのだ。太一はそのたくましい背中に、母の悲しみさえも背負おうとしていたのである。母が毎日見ている海は、いつしか太一にとっては“自由”な海になっていた。』
今回のタイトル「求めるべき自由」というのは、この海の命のこの文に全てが集約しているのではないかと思っている。太一は“好き勝手”に海で潜り漁師をやっているのではない。与吉じいさんに漁師としての基本を一から教えてもらい、成長することで「心・技・体(強い精神・両氏としての技量・屈強な身体)」を得て、海でほとんど困ることなく生きられるようになったのだ。
みんなにも思い出してほしい。小学1年生の時には本当にできないことが多かったのではないだろうか。嫌いなものが食べられなかったり、宿題を一人でやれなかったり、友達とうまく関わる方法が分からなくてケンカばかりしたり、人前で話す時に声が小さくなったり…。できないことばかりだと、給食の時間が嫌で、勉強が嫌で、友達関係が嫌で、発表が嫌で…。でも、一つ一つ、本当にゆっくりなんだけど、それに向き合い、成長していくと、嫌だったものが普通になって、ひょっとしたら好きなものに変わったりして。そしてその成長の先に本当に“自由な世界”が広がっているような気がする。
自分が成長しないのに、本当の自由なんてやってこない。それは誰かに与えられているだけ。成長し、できることが増えることで、あなたから見える景色が変わるのだ。本当の自由というのは、そういうことではないだろうか。あなたにとっての「自由」って、どんなものだろう?一度考えてみるといい。



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