みんなは山中伸弥京都大学教授のことを知っているだろうか?そう『iPS細胞(induced pluripotent stem cell=人工的に誘導した多能性細胞)』を世界で初めて作製することに成功した博士で、2012年にノーベル医学・生理学賞を受賞した人だ。iPS細胞は、その人(特に患者さん)の細胞に外から別の遺伝子を組み込むことによって作られる(詳しくはネットをどうぞ)。できた細胞は”初期化”された状態で“多能性”をもっており、その後さまざまな組織(皮膚や内臓、脳など)の細胞になり得るので、分化させて再生医療に利用するということが期待できるようになったのである。
それまでにもES細胞というものがあった。しかし、人として成長する可能性のある受精卵を用いて(悪い言い方をすると”犠牲”にして)作製することから、倫理的によいのか?ということ、そして、患者さん本人から作っている細胞ではないことから、患者さんに移植した時に免疫の拒絶反応が出てしまう可能性も大いにあったこと、などの問題点があった。それらの問題点を解決することができたこのiPS細胞は、今後どのように人の治療に活用されていくのか、期待されつつ、まだまだ安全性の問題など課題はあるので、慎重に研究が進められているところである。
そんなこんなの山中教授は、どんな学生時代を過ごしてきたのだろう。超スーパーエリート街道を走って来たのだろうか。
山中教授は、小学生の頃は特に目立ったエピソードがあるわけでもないが、やはり理系の教科は特によくできていたらしい。奈良県奈良市に住んでいたが中学校は受験をして、大阪の国立大阪教育大学附属天王寺中学校に通っていた。そこでは、その後大学の途中までする柔道部に所属することになる。高校は中学校からそのまま大阪教育大学附属高校天王寺校舎に進んでいる。この高校は(中学もそうだが)大阪府内でもトップレベルの高校として知られている。高校当時、柔道部に所属していた山中教授にこんなエピソードがある。
中学校から柔道を始めた山中教授だが、高校の時はあまり高いモチベーションでやっていたわけでもなかった。柔道の練習は単調であり、体力をかなり使うことからとにかく苦しい。今と違ってそんなにしょっちゅう水分を取ったり休息をとることもできない。おまけに試合といえば年に5回程度あるだけ。試合に勝てばいいが、負けたらまたその次の日から練習練習の繰り返し。当時高校生だった山中くんは、ある日教育実習生の大学生に稽古をつけてもらうことになった。その時に、なんと腕の骨を折るという怪我をしてしまったのだ。しかもその教育実習生は実習初日だったということもあり、その事態にかなり焦り困惑していた様子。すぐに病院に治療に行き、特に大きな問題になったわけではないのだが…。その大学生の実習生からの謝罪の電話に対して、山中くんの母親は「悪いのはうちの息子です。ちゃんと受け身を取らんかった結果がコレです。だから大丈夫です。」と言い切ったそうだ。その時、山中くんは、母のその毅然とした態度を見て、「我が母ながらスゲェ」って思ったらしい。
このエピソードを聞くと、いろいろ思うことがある。自分が骨折していながらも、母親の姿を見て尊敬してしまう山中くんの思慮の深さ(当時かなり反抗期だったらしいのに)。そして、自分の息子が大切であるがゆえに、正しくそして凛とした態度で接している母の偉大さ。“この親にしてこの子あり”なんて言葉もあるけど、まさにそんなエピソードだ。ちなみにそれ以来、何か悪いことが起こった時は、「身から出たサビ」と考え、逆に良いことが起きた時は、「おかげさま」と周りに感謝するようにしているらしい。(「1日1話 365人の仕事の教科書」より:致知出版社)
山中教授は、高校生の時に本格的に医師の道を志すことになり、その後受験を経て神戸大学医学部に入学する。高校生の頃は生徒会で副会長を務めたり(当時の会長が政治家で自民党の世耕弘成氏だからビックリ)、コピーバンドをしていたりと、ただの勉強ができる人だけでなく、自分からやりたいことや思いを行動にするタイプの人だったことがよく分かる。大学へも意志をもって入り、大学も大きなケガをするまでは柔道、そしてケガが完治してからは、ずっとやりたいと思っていたラグビーをするなど、ただでさえ勉強に忙しい大学生活にも文武両道でやりたいことをやり通す人だったようである。きっと親元を離れても、“同志”と呼べるような仲間がいたのだろうね。周りにいる人って本当に大切だと思う。大学卒業後3年程度の医者の時期を経て、また大学に戻り研究者の道に進む山中教授。まっすぐ生きて、着実に力をつけていく姿に感銘を受けて、今回紹介した。



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