「義」という生き方

生き方

 「義」という言葉はいろいろな熟語に活用される。正義、義務、義理…。その意味は「人として正しいこと」「みんなのためになる行い」のことだ。例えば、友だちが困っていたら助ける、うそをつかずに正直でいる、悪いことを見て見ぬふりをしない、などが「義」の行いと言えよう。自分にとって得になるかどうかよりも、正しいと思うことを大切にする気持ちである。「義」を大切にすることで、まわりの人と信頼し合い、よい関係をつくることができる。昔の日本や中国では、勇気をもって「義」の道をつらぬくことがとても立派とされていた。

 ここで二人の人物を紹介したい。一人目は楠木正成だ。楠木正成は、日本の南北朝時代(室町時代初期)に後醍醐天皇のために命をかけて戦い、最期には自ら命を絶ったことから、「理想的な忠義の人」として、江戸時代に『大楠公』とよばれて人々から尊敬されていた。江戸時代、徳川幕府は武士たちに「忠義」や「道徳」を大事にさせたいと考えていた。目上の人を大切にするという考えの「儒教」も、幕府の体制を続ける上でとても重要であり、楠木正成の存在を神様のようにあがめ、お寺や神社にもまつられるようになった。また、子どもたちのお手本にする人物として、当時の教科書や本にもよく出てきていたそうだ。
 時代は鎌倉幕府がなくなった頃。後醍醐天皇は建武の新政という天皇中心の国家づくりをしようとするが、一度力(武力)をもった武士が世を治めるという時代が始まってしまっては、もう後戻りが出来ないもの。後醍醐天皇のすすめる建武の新政は、武士にとって決してよいものではなく、世の中の武士たちからは不満があふれていた。そんな武士のリーダーであった足利高氏(のちの室町幕府の初代将軍である尊氏)と後醍醐天皇が以後対立を続ける。楠木正成は後醍醐天皇の下につき足利高氏と戦う。正成は「湊川の戦い」で形勢が不利と分かっていながらも(高氏も死なせるには惜しい人材と考えていた)、天皇の命に背くことをせず、弟とともに自害した。

 二人目は、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)。大石内蔵助と言えば「忠臣蔵」の主人公。そう、この忠臣蔵という字は「忠義に厚い家来(忠臣)たちの物語をまとめたもの(蔵)」という意味を表している(内蔵助の蔵という説も)。忠臣蔵は、江戸時代に実際に起きた「赤穂事件」をもとにした物語で、主君に仕えた家来たちの忠義をたたえる話。1701年、赤穂藩(今の兵庫県西部)の殿様である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城の松の廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)というという高い位の人を刀で切りつけてしまう。城の中で刀を抜くというのは非常に重い罪だったため、浅野はその日のうちに切腹を命じられ、赤穂藩も取りつぶされてしまうことになった。家来たちは突然主人を失い、ふるさとも仕事もなくしてしまう。彼らは「なぜ浅野だけがこんなに重い罰を受けなければならないのか」という思いを抱いた。その中心となったのが大石内蔵助という赤穂藩の重臣。彼は仲間たちと力を合わせ、1年以上の時間をかけて、吉良への恨みを晴らすための計画を立てた。そして、1702年12月、ついに吉良の屋敷を襲い、見事に吉良上野介を討ち取り、仇討ちを成し遂げる。47人の家来たちは自分の行動に責任をとって切腹をした。この物語は人々に“忠義とは何か”を考えさせるものとして感動を与え、歌舞伎や物語などで今でも語り継がれている。大石内蔵助は47人の中で初めに切腹したとされ、切腹する直前、残る46人の家来たちに対して『あら楽や 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』という辞世の句(人生の終わりに詠む歌)を歌った。意味は「なんと晴れやかな気持ちだろう。長年の思いを果たして、命を捨てることも悔いはない。このようの月に雲が一つもかかっていないように」。これは主君の仇を討ち、武士としての本望を遂げた内蔵助が、“清々しい気持ち”で死を迎えたことを表している。他にも「もともと短い命だが、義のためにその命を使ったことを誇りに思う」という意味の歌を詠んだ家来もいたという。

 「正義」は国、宗教、民族、個人によって全く違う。自分の中にある「義」を“育てていく”には、様々なことを一生懸命学んだり、多くの人がもつ「義」に直接触れたりすることがとても大切だろう。そして、自分の「義」を貫くとともに、相手の「義」も尊重する心を磨こう。誰からも尊敬されるような「義」を心に宿し、清々しく生きていきたいものである。

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