実像を捉える

学校

 先日東京に出張に行った。2019年から始まった『GIGAスクール構想』。1人1台タブレットが配られて、個別最適な学習そして、効率的な学びを求めて教育現場は日々研究している。それは先生だけの仕事ではなく、一番大切な当事者は子どもたちである君たちだ。「こんな授業をした方が効率的なんじゃないの?」って先生に言ってみてもいいんだよ。『改善』は“困るところから生まれるもの”なんだからね。先生はそんなみんなの“困り感”を敏感にキャッチしながら授業を再構築しているだろうけど、気付かないことなんて山ほどあるから。ぜひ“主役”の君たちからも、授業の形の提案をしていってほしい。

 話を戻すと、その出張でのこと。出張と言っても、文部科学省の方のお話や「タブレットを活用した授業の報告」、パネルディスカッションなどを聞くという基本インプットばかりの出張だ。そこでとても印象に残った話がある。そこにいた大学の教授が、「もう30年も前から個別学習をスタートしているところはあるし、学習の“狙い”が大きく変わったわけではない。だた、そのスピードが圧倒的に速くなったんです」と言っていた。そりゃそうだ。今は2024年。ここにきて新しい考え方が生まれたわけではない。タブレットとはいえ、所詮は『手段』である。タブレットを使うこと自体はゴールではない。個別で学習することは“効率的になる可能性がある”が、決してゴールではない。だから、そもそも「この活動の目的は何か?」「僕は・私は今何を学んでいるんだ?」「未来の何につながるんだ?」という視点は100年前だろうが、1000年前だろうが大切だ。そして、そんな視点をもっていた人が時代を引っ張り、切り開いてきたに違いない。だからこそ本質的なこと、本当に大切なことというのは、すでにたくさん議論されてきているのであって、古いことからも学ぶということが非常に尊く、大切な活動なのだということを感じている。まさに「温故知新」だね。

 とは言え、新しいことの蓄積が進めば、それらを組み合わせた新しい見方・考え方が生まれてくることもある。最近、チームラボ創業者の猪子寿之さんが堀江貴文さん(ホリエモン)と会話をしているユーチューブがあった。そこでは、映像を映すことができる“レンズが生まれたことが、ルネッサンスを生んだ”という非常に興味深い話だった。ルネッサンスと言えば、14世紀末~16世紀初めにかけてヨーロッパを舞台に広がった芸術や学問の革命的な運動であり、『文芸復興』という言葉で表される。

 私は、中学生~高校生時代のいつかの時に、社会や美術の教科書に出てくる過去の芸術作品に対して「何で歴史的な壁画や絵画なのに、こんなに下手なんだろう…」と、失礼にも思っていたことがある。きっと共感する人も大勢いるのではないだろうか。その疑問に対して猪子さんが答えていたのだ。『当時は写真のように手元に残る形「現像」という機能がなかったが、レンズがその物を壁か何かに映し出すことによって、人間はその「物体」を”完全に客観的に見ることができるようになった”、言い換えると“本当の姿を認識できた”』という内容だった。逆に「あまり上手くない絵だよなぁ」と思っていた教科書の絵画たちは、その作者からすると、まさに“そのように見えていた”ということなのだ。だから下手なのではなく、それが”限界”であり仕方なかったのだという。私たち現代人からすると、「え!?見たままと明らかに違うじゃん」と思ってしまうが、自分の目で物体を捉えるのと、映し出されたものを“画面越しに”捉えるのでは、「認知・認識」が違ってくるらしい。より高度な認知・認識を手に入れた芸術家たちが、その後実物と同じような作品に辿り着くことになる。ダ・ヴィンチの「モナリザ」やミケランジェロの「ダビデ像」など、ルネッサンス期の代表される作品を見れば一目瞭然だ。写真のような等身大の作品が多く生まれているのである。芸術だけではなく、科学の世界も同じように広がりをみせていったようだ。

 認知・認識が違ってくるとなると、当然“感じ方”が違ってくるので、教科書やタブレットで見て感じることと、実物のものを実際に現地に行って見て感じることとでは、大きな隔たりがありそうだ。

 本を読むのも「紙がイイ」という人と「電子書籍がイイ」という人がいる。私は前者だが、文字情報なのでその程度ならまだいい。でも、五感に訴えてくるようなものは、絶対に現地に行った方がよいのだろう。さっきの話を合わせると、まず教科書で高度な認知・認識をし、その後現地にいって直接生のものを見て触れて感じる
 こんな学びが最高なのは知っていたような知らなかったような…。納得するとより実感が沸く話ではある♬

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