最近読んでいる本「教えから学びへ―教育にとって一番大切なこと-」(汐見稔幸著 河出新書)の中に、このタイトルの言葉があり、読んでいた私は、ついついそのページに付箋を貼った。まさに“学ぶ姿勢”を表した言葉だなと思ったからだ。
文部科学省がおよそ10年に1度改訂している教育課程の基準が書かれている「学習指導要領」というものをみんなは聞いたことがあるだろうか。先生たちは、その学習指導要領が示す指針に沿って、(そして、その指針の方向性を満たした教科書を用いて)授業を考えている。
およそ10年に1度変わるのにはワケがある。それは、学校が社会(世の中)とつながっている存在であり続けるためだ。1958年(昭和33年)に初めて出された学習指導要領だが、もし今も当時の学習指導の方針がそのままであるとしたら、それはとても危険なことだ。特にインターネットが普及して以降、世の中の変化というのはとても目まぐるしく、ずっと学校が変わらなければ、“学校で学んだことが、世の中に出た時に通用しない”ということになってしまう。だから、定期的に変化をしていく必要がある。
今の学習指導要領には、キーワードがいくつもあるのだが、その中でも“学び方”を表現しているのが「主体的・対話的で深い学び」という言葉だ。みんなは先生の言葉から「主体的」とか「対話」とか、「深い学び」という言葉を聞いたことはないだろうか。これらの言葉を別の言い方にすると「アクティブ・ラーニング」と言い、ひょっとしたらこちらの言葉も耳にしたことがあるかもしれない。学習指導要領は子どもたちへの指導の仕方を先生たちが共通認識し、全国どこでもある程度同質な教育ができるようにしたものである。
では、実際の主役である“学ぶ側”のみんなは、どう進化していったらいいのだろうか。私はこの「信じて、疑う」という姿勢をぜひ、自分のものにしてこれから学んでいってほしいと思う。
学校の授業から得る情報というのは、教科書を中心に、資料集そして今ではネット上からも集めることができる。ただ、どの教科書にも、基本的には事実(や、事実とされること)しか書かれておらず、「へぇそうなんだな」と受け止めることしかできないことが多い。教科書を読むだけでは、知識を得たに過ぎず、そのままで終わっていては、調理も味付けもされていない食材をただただボリボリ食べるようなものだ(少し表現がよくないだろうか)。
私がこのブログでよくお勧めする「読書」や「新聞」テレビの「ニュース」などは、それら知識を用いて、なお且つそれぞれに発信している人の“考え”や“思い”が込められている。その人の“思想”があるのだ。でも、新しい情報を100%素直に受け入れていては、“自分の考え”を持つことができなかったり、知識を“教養”というステージに昇華させられなかったりするだろう。だから、信じることも大切だが、常に頭を働かせて「本当にそうか?」と思いながら情報を得ていってほしい。
私は学校の先生をしていた時、社会科の授業で単元ごとに話し合うテーマを設定し、そのテーマについて議論するという授業をしていた。主体的に学ぼうとしなければ、知識を得られないし、自分の思いをもつこともできない。対話をして自分以外の考えに触れなければ、自分の考えを磨くことができない。そして、主体的・対話的でなければ、深い学びへと到達することはできない。もちろん、すごい知識をもっている子からすると、学校の授業の中の対話では、新しく得るものがないかもしれない。だから、お互いに学校だけで情報を得るのではなく、今学んでいる分野の情報と世の中にある情報を混ぜ合わせてほしい。4~5年生(特に5年生)の社会科の学習内容は、本当に世の中にあるニュースとのつながりに溢れている。だから、教科書に書いてあるような「知識」だけで学んだ気にならず、その知識を活用してさまざまな情報に触れ、「ここに書いていることって本当かなぁ?」と疑ってみることが大切だ。
特に情報が多すぎる今の世の中だからこそ、多くの情報を“処理”するという姿勢ではなく、自分なりの“思考”を伴った消化をして、じっくり自分の血肉にしてほしいと思う。私は西野亮廣さんや堀江貴文さんが大好きでファンだが、決して100%考え方に賛成しているわけではない。「それはそう思わないなぁ」と心でつぶやいていることなんて日常茶飯事だ。違う人間だし。そういうものでしょ!?



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