久しぶりに、教師をしていた時の先輩と後輩に会った。3人とも小学生の子どもがいることもあり、自然と子育てや子どもの将来の進路などについての話になった。話をしていく中で分かったのだが、私たち3人はたまたま「同じ高校出身」だった。そこで、話題が高校時代の学校生活へと移った。(今から20年以上前の話だ)
私たちの高校は、地区の中でもいわゆる「進学校」と言われる学校であったのだが、高校時代の勉強には3人ともあまりいい思い出がない。まぁ結論から言うと、高校の学習内容は、凄まじく膨大な量があるからだ。小学校の学習量を「1」とすると、中学校が「3」、高校は…「7」くらいであっただろうか(私の勝手な判断だが)。
でも単純な「量」だけの話ではない。例えば理科の授業。高校になると、理科が「化学」「物理」「生物」「地学」と4つに分かれ、たいていの生徒はその中から2つを選択し学んでいた。小学校の理科では、ソーラーカーのキットを使って、導線をつないで回路を作り、太陽の力で車が動くという活動をしたことを覚えている。中学校では、硫化水素の“卵が腐ったようなにおい”を出す実験をした。化学反応によって熱が生まれて試験管が割れてしまったこともあった。学んだことを実際に検証して、自分たちの手で確認した。
高校の頃、理系に進んだ私は化学と物理を専攻した。でも、どちらの授業もひたすら教科書や資料集をつかった、いわゆる「座学」ばかりで、教室を出て実験をしたという記憶は一切ない。1年生の初めに「元素記号を覚えて!」と言われて、語呂合わせをしたこともあったが、ずーっと先生の話を聞きながら、黒板に書かれたことをただひたすらノートに写す日々だった。全く楽しくなかったわけでもないが、“分からなく”なってからは、先生の言っていることがどこか知らない外国の言語のように、右耳から入って左耳から抜けていくようになった。今のように動画を見せてもらうこともなく、非常に“無機質”な授業だったなぁと今思う。
古典の授業なんかもそうだった。古典の授業では昔の言葉を学びつつ、出てくる話の内容も理解していく。覚えなければいけないことが膨大にあり、かつ“分かっている”ことが前提であるかのように進んでいくことに戸惑い、早々に挫折したのを覚えている。そして、振り返ってみると何より疑問に思うのが、「古典って全員が週に2~3時間も学ばないといけないものなのだろうか?」ということだ。あの時間はただただ苦痛だった。クラスの8~9割くらいの生徒は「つまらない」と言っていた。
あと、修学旅行についても。高校2年生の時に修学旅行に行った。高校生だし、旅行だし、それなりに楽しかった。行き先は「軽井沢」。私たち高校生には、縁もゆかりも全くない土地だ。行ってよかったとは思えるが、思い出として“無いよりはあった方がいい”という程度だ。「小学生が歴史を学んだから京都・奈良に行く」といった、学習したことに出合う“つながり”は一切感じなかった。今思うと、さまざまな部分で”システムエラー”が発生していた高校のカリキュラムだった。
みんなは、将来どんな進路を歩もうと思っているのだろうか。将来のことを考えることに“早すぎる”ということはないと思う。「みんなが普通科に行くから」なんていう理由で選んでしまうと、モチベーションを保つことが困難になるかもしれない。今ならネットでその高校について調べることもできるし、パンフレット(ガイド)も充実している。私も母校を含め、高校がどのように紹介されているのか気になったので、先ほどネットで県内の公立高校と私立高校のパンフレットをそれぞれ1冊ずつポチっと注文してみた。今の高校が過去からどのように変化しているのか、あまり変化していないのか、いつか見学しに行きたいと思う。私は20数年前の中学3年生だった頃に、自分の高校を選択するために夏休み等を利用して興味のある高校に見学しに行ったり、知り合いからの評判を聞いたり、中学校の先生から話を聞いたりしていた。一番いいのは、“現役で通っている高校生”に今の学校生活を聞くのがいい。
入ってから「やっぱり別の学校に変える」というのは、決してできないことではないが、前もってしっかり調べておく方がいいことは間違いない。自分の将来のビジョンを定めて、高校を選ぶ理由を自分の中で”確かに”もつことだ。そして、行く高校のことを前もって”具体的に”感じることだ。



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