手を使おう!

学校

 今の時代、分からないことがあればスマホで調べればすぐに答えが出る。計算も電卓を使えば一瞬だ。とても便利な世の中になった。でも、ふとこんな疑問がわいた。「人間って、本当にそれでいいのだろうか?」
 『人間は道具を使うことで進化してきた』という言葉があるように、「道具を使う」つまり「手の感覚を使って活動する」ことが人間の脳を進化させてきたのだとしたら、今、あなたは自分の脳をしっかり働かせて過ごしているだろうか?

 という疑問を感じたのも、私が今担任をしている小学3年生の総合的な学習の時間で「昔のくらし新聞」の発表をする時間があったからだ。子どもたちはタブレットで自分が作成した新聞と、発表原稿を基に一生懸命発表していた。その時にふと思ったのだ。「あれ?昔の道具として子どもたちが紹介している洗濯板やかまど、手回しミシン。そして昔の遊びとして紹介しているおはじきやけん玉、竹とんぼ、お手玉。これらは自分の感覚を養うためにとても重要な活動なのではないだろうか?」と。

 また、算数の授業で「そろばん」という単元が2時間あった。江戸時代は「読み・書き・そろばん」という言葉があったように、そろばんは計算をする上でとても大切な活動であった。電卓が世の中に普及してからも、昭和から平成前半の時代にも習い事として、常にトップ5には入るであろう身近な存在であった。しかし、今では地域にあったそろばん塾もほとんどなくなり、令和の今の時代には、逆に珍しい存在になっているのではないだろうか。このそろばん、授業で改めてやってみると、めちゃくちゃ頭を使う。そろばんでは、「3+3」を計算するのにも、ただ6とするのではなく、「5を入れて2を引く」という考え方をする。つまり頭の中で「5-2」を考えながら指を動かすのだ。「9+3」もそうで、「10を入れて7を引く」つまり「10-7」を考えながら指を動かす。
 習い事でそろばんをやっている人は、この活動を膨大な練習量で瞬時にできるようになる。つまり「そろばん」という習い事は、“頭の体操をする”と言い換えられるものだったのだろう。そろばんで得た技術は、学校の勉強のためだけにとどまらず、日常生活においても計算は必要である。今までに暗算のため“エアー”で指を弾いている人を見かけたことがある人もいるだろう。細かく指を動かし、かつ想像力も養う。そろばんって本当になくなっていい習い事なのだろうかと今さら心配になってきた…。

 ちなみに、私もそろばんを習っていた昭和生まれの人間であるが、そろばんは繊細な道具なので、指の使い方を間違えると玉がぐちゃぐちゃになり、もう一度一からやり直しになる。辛くて悔しくて涙を流したことが何度もあったと記憶している。やっている当時は嫌だったこともあったが、そのおかげで計算力は圧倒的に向上したし、何度も計算を重ねていると、例えば15×9をいちいち計算する必要はなく、“知識として15×9=135である”というレベルにまで自分を高められるようになる。これをもっているかいないかの差は結構大きいような気がするが、あなたはこのそろばんの話、どう考えるだろうか?

 電卓は便利だ。正確だし速いしその存在を否定もしない。ただ、全く頭を使わない行動になるのであれば、どこかで自分の頭を使う活動を取り入れた方がいいのではないだろうか。これが今回の私からの問題提起だ。スマートフォンやタブレット、そしてノートパソコンは昔のものよりどんどん美しく、シンプルだ。しかし、何の凹凸もなく、触った心地も無い。平面で立体感もない。何度もやり直せることが分かっていて、”限られている”と感じることもできない。悪い言い方をすれば、身のまわりにはそんな“無機質”なもので溢れているのかもしれない。

 だからこそ今の時代、自分がもっている力を引き出し、成長させるという視点をもってほしい。例えば“書くこと”。字は実に細かい。一発勝負で書き直さなくてもいいから(もちろん、間違えたら書き直しなさいよ 笑)丁寧に書くことで頭を働かせよう!例えば“図工美術。工作にしても絵画にしても、どちらも繊細な指の動きを求められる。自分なりに一生懸命やることで、技術を高めつつ頭を働かせよう。想像力も磨かれるし一石二鳥だ。

 来週、総合の時間に昔の遊びで「こま・けん玉・お手玉」をやろうと考えている。使う道具の”重み”や使う時の”技術”、そして”想像力”を大切にし、子どもたちには自分の中に眠っている力を引き出してもらおうと思う。

 さて、あなたはこれから、どんな活動で今以上に手を使ってみる?

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